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2020年4月3日金曜日

『三陸鉄道になら、乗りたい』(デーリー東北新聞社 2019年6月12日掲載)

『三陸鉄道になら、乗りたい』
(デーリー東北新聞社 2019年6月12日掲載)



東京に住んでいた頃、電車といえば苦痛な乗り物であった。
短大生の頃は混雑した電車に1時間以上揺られて通学しなければならず、学校に着く頃にはクタクタになっていた。

満員電車に乗っている間の人の熱や身動きが取れない状況が好きな人はまずいないとは思うが、私は人の流れに乗ってエスカレーターに乗ることも、ホームで電車を待つ風が吹き抜ける空間も、全てが体に合わなかった。

久慈市に引っ越し、自動車免許を取り、車を持った。運転は少々苦手だが、行きたい場所に自分の時間で行動できるのは実に快適だ。しかし、私は宮古方面に行く際にはなるべく三陸鉄道を使う。自動車で行く方が速く、かかるお金も安いのだが、時間が許せば三陸鉄道に乗る。乗りたいのだ。

三陸鉄道は海沿いをゆっくり走り、景色の良いスポットでは一時停止して運転士さんが解説してくれる。お弁当も食べられるし、トイレもある。本を読んだり、うたた寝をしながら移動できる。

ある日、野田村で飲み会をすることになり、陸中野田駅まで三陸鉄道に乗った。ちょうど部活終わりの高校生たちが乗車する時間だった。列車内は空いていた。高校生たちは仲間たちとボックス席に座り、お菓子を食べたり、談笑したりしている。イヤホンで音楽を聴きながら椅子に横になって眠る子もいた。

東京ならまずあり得ない光景だ。案の定、先日SNSで電車のボックス席に座る若い女性が前の席に足や荷物を乗せている画像が拡散されていた。付随して、電車内でお菓子を食べる親子の画像も出回っていた。混雑した電車ではマナーが悪い。確かにそうだ。だが私はその時、列車内で眠る高校生を見て「疲れているのだろう」と思ってほほ笑ましかった。お菓子を食べて笑う高校生に青春を感じた。

場所が違えばマナーは異なる。それらが悪いこととされるのは一説として、人が多いことのせいではないかと思う。マナーは時々、心の窮屈を生む。

また別の日、三陸鉄道で宮古まで向かおうとしたが、家を出るのが遅くなり、私は駅まで走った。心の中では間に合わなかったら家に戻って車で行くことも考えた。

駅に着くと、ギリギリ列車は発車していなかった。駅のお姉さんに「お金は着いたら払って。今すぐ乗って。運転手に連絡するから」と言われ、階段を駆け上がりギリギリ乗車した。間に合った。いや、本来なら間に合っていない。少し待ってくれたんだと思う。こんなこと、東京ではしてくれないだろう。

「駆け込み乗車は危険です」。それが終電でも、目の前で非情にも行ってしまう。ギリギリの乗車になったことは反省しつつ、大らかな対応をしてくれる三陸鉄道がまた好きになった。

久慈駅から大船渡の盛駅まで直通列車になった三陸鉄道。一度は始発から終点まで乗ってみたい。列車では何をしようか。カメラを持って景色を楽しむのもいい。お菓子を食べながらモノポリーをするのも面白そうだ。目的地に行くことより、列車に乗ることを楽しみにするなんて、久慈市に移住しなければ無かっただろう。

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2020年4月2日木曜日

『日本の闘牛』(デーリー東北新聞 2019年5月8日掲載)

『日本の闘牛』(デーリー東北新聞 2019年5月8日掲載)



皆さんは日本の「闘牛」を見たことがあるだろうか。岩手県久慈市山形町では東北地方
で唯一、闘牛大会が開かれている。平庭高原を会場とした平庭闘牛大会は年に3回、5月
に行われる練習会「わかば場所」を含めると年4回行われていることになる。

「闘牛」というと怖いイメージを持っている人もいるかもしれない。私も以前は、スペ
インで行われているような、闘牛士が赤い布を振り回して牛を翻弄し、最後に牛の背中を
剣で刺すものを想像した。しかし、日本で開催されている闘牛は全く違う。まず、欧米諸
国のように人対牛ではなく、牛同士が闘う。日本の闘牛は「牛の角突き」とも呼ばれてお
り、牛同士の相撲のようなものだ。大関や横綱といった階級もあり、技にも名前が付いて
いる。牛が命を落とすことはなく、概ねどちらかの牛が背を向けて逃げれば勝敗が決まる


また、久慈市や新潟県の小千谷市、長岡市山古志などで行われている大会では、勝ち負
けをつけない。大きな理由としては負け癖をつけないようにするためなのだそうだ。負け
てしまうと牛のプライドが傷つき、戦意を喪失してしまいかねないのだ。平庭闘牛の場合
は加えて若い牛同士の取り組みであることにも配慮されている。良い闘牛が育つと全国の
闘牛開催地に売られていく。久慈市は闘牛の産地としての役割も担っているそうだ。

日本の闘牛では勢子(せこ)という役割の人が牛を上手く誘導し、牛同士の角を突き合わせ、闘いが終わると引き離す。牛の動きを読み、鮮やかに操る勢子さんの姿も闘牛の魅力の一つである。牛には元々闘争本能があるためか、闘う牛たちはとても生き生きとして見える。

牛は自分の力を誇示するために闘い、相手を殺すようなことはしないそうだ。横綱と呼
ばれる牛は1トンを超えるほどの大きさだ。闘牛場に入ってくるなり跳ねまわり、大きな
鼻息と鳴き声を出す様子は恐ろしくもあり、これが生き物本来の姿なのだと思わされる。
角を突き合わせる音や、押して押されての攻防は迫力があり息を飲むほどだ。

平庭闘牛ではまだ闘牛を始めて間もない、わずか400キロほどの3歳以下の牛同士の取り組みもある。勢子さんに誘導され、角を突き合わせるがちっとも押し合わなかったり、闘牛場をキョロキョロと見回したりする。ついには、お互いにじゃれ合うなどして観客から思わぬ笑いをもらう。

動物を扱う文化は、時に「残酷である」などと動物愛護の観点からさまざまな意見も出て
くるが、平庭闘牛大会は若い牛のかわいらしい姿、大きな牛の野性味ある荒々しい姿を見
て生き物の命を感じることができる、素晴らしい機会だと思っている。

私は牛肉を食べるが、命を頂いているという事を決して忘れてはならないと考えている。お肉になった牛しか見たことがないと生き物への敬意を忘れてしまうと思う。
牛は可愛らしい目をしていて、とても力強い。
その素晴らしい命を頂いて自分の糧とする。

山形町の短角牛を食べて、明日も頑張ろう。
そしてまた闘牛大会を見に行こう。



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