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2020年4月2日木曜日

『日本の闘牛』(デーリー東北新聞 2019年5月8日掲載)

『日本の闘牛』(デーリー東北新聞 2019年5月8日掲載)



皆さんは日本の「闘牛」を見たことがあるだろうか。岩手県久慈市山形町では東北地方
で唯一、闘牛大会が開かれている。平庭高原を会場とした平庭闘牛大会は年に3回、5月
に行われる練習会「わかば場所」を含めると年4回行われていることになる。

「闘牛」というと怖いイメージを持っている人もいるかもしれない。私も以前は、スペ
インで行われているような、闘牛士が赤い布を振り回して牛を翻弄し、最後に牛の背中を
剣で刺すものを想像した。しかし、日本で開催されている闘牛は全く違う。まず、欧米諸
国のように人対牛ではなく、牛同士が闘う。日本の闘牛は「牛の角突き」とも呼ばれてお
り、牛同士の相撲のようなものだ。大関や横綱といった階級もあり、技にも名前が付いて
いる。牛が命を落とすことはなく、概ねどちらかの牛が背を向けて逃げれば勝敗が決まる


また、久慈市や新潟県の小千谷市、長岡市山古志などで行われている大会では、勝ち負
けをつけない。大きな理由としては負け癖をつけないようにするためなのだそうだ。負け
てしまうと牛のプライドが傷つき、戦意を喪失してしまいかねないのだ。平庭闘牛の場合
は加えて若い牛同士の取り組みであることにも配慮されている。良い闘牛が育つと全国の
闘牛開催地に売られていく。久慈市は闘牛の産地としての役割も担っているそうだ。

日本の闘牛では勢子(せこ)という役割の人が牛を上手く誘導し、牛同士の角を突き合わせ、闘いが終わると引き離す。牛の動きを読み、鮮やかに操る勢子さんの姿も闘牛の魅力の一つである。牛には元々闘争本能があるためか、闘う牛たちはとても生き生きとして見える。

牛は自分の力を誇示するために闘い、相手を殺すようなことはしないそうだ。横綱と呼
ばれる牛は1トンを超えるほどの大きさだ。闘牛場に入ってくるなり跳ねまわり、大きな
鼻息と鳴き声を出す様子は恐ろしくもあり、これが生き物本来の姿なのだと思わされる。
角を突き合わせる音や、押して押されての攻防は迫力があり息を飲むほどだ。

平庭闘牛ではまだ闘牛を始めて間もない、わずか400キロほどの3歳以下の牛同士の取り組みもある。勢子さんに誘導され、角を突き合わせるがちっとも押し合わなかったり、闘牛場をキョロキョロと見回したりする。ついには、お互いにじゃれ合うなどして観客から思わぬ笑いをもらう。

動物を扱う文化は、時に「残酷である」などと動物愛護の観点からさまざまな意見も出て
くるが、平庭闘牛大会は若い牛のかわいらしい姿、大きな牛の野性味ある荒々しい姿を見
て生き物の命を感じることができる、素晴らしい機会だと思っている。

私は牛肉を食べるが、命を頂いているという事を決して忘れてはならないと考えている。お肉になった牛しか見たことがないと生き物への敬意を忘れてしまうと思う。
牛は可愛らしい目をしていて、とても力強い。
その素晴らしい命を頂いて自分の糧とする。

山形町の短角牛を食べて、明日も頑張ろう。
そしてまた闘牛大会を見に行こう。



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2020年4月1日水曜日

『海女はレコードのように。』 (デーリー東北新聞 2019年4月3日掲載)

『海女はレコードのように。』
(デーリー東北新聞 2019年4月3日掲載)



東京の実家から、MD(ミニディスク)を聞くことのできるステレオを持ってきた。小学生の頃に聞いていた懐かしい曲を聴きながら今、この原稿を書いている。

電気屋さんに売っている新しいステレオは、ほとんどがMDを再生できない。MDを作るメーカーは、ついには「TEAC(ティアック)」1社になったと聞く。デジタル音楽プレイヤーの普及により、音楽をより良い音質で録音でき、持ち運べるようになった。
 
しかし、私があの頃に聞いていた音楽はこのMDの音質なのだ。あの頃の音楽はMDにある。シングルCDをレンタルショップでいくつも借りて自ら作ったリミックスや、アルバム名が手書きで書かれた父のMDは当時の匂いまで思い出すほどいとおしいものだ。
 
MDが廃れていくのは時代の流れの中でやむ終えないことと思うが、全て無くなってしまうのは惜しい。カセットやレコードはいまだに愛され続け、存在し続けている。それはやはりノスタルジックの愛好者やレトロな雰囲気を逆に新しく感じる世代が存在しているからか。
どんなに新しい技術がより優れたものを作ろうとも、古きものにしかない良さがある。

私は夏に観光海女としてウニの素潜り漁を観光客に見せるという、なんともアナログな仕事をしている。岩手県久慈市の「北限の海女」は絣半纏(かすりはんてん)と白い短パンという昔ながらのスタイル。

もちろんウエットスーツを着て空気ボンベを付ければよりたくさんのウニを取ることができるし、最近ではウニの養殖技術も上がっていると聞く。漁業として海女より効率的なやり方は今や多数あるためか、全国的にも海女は年々減少している。

しかし、無くなってしまうのはやはり惜しいもの。現代は足のつかない海で泳げない人も多く、素潜り自体できる人が少ない。それゆえ海女は貴重な存在であり、後世に残すべき技術とも言える。

北限の海女の始まりは明治20年ごろ、それまで素潜り漁を行っていた男性が動力船に乗って出稼ぎで漁業を行うようになり、家計を支えるために女性が浜に潜り始めたといわれている。始めは裸に近い格好で、現在のような服装になったのは昭和40年ごろからだそう。現在は私のような「よそ者」でも観光海女をさせてもらえるようになった。

伝統は少しずつ形を変えるが、その歴史や心を語り継ぐためにはそのものが無くなってはいけない。
海女はレコードのように世代を超えて愛され、後世に響くコンテンツとして残ってほしいと願う。

MDを見たことがない世代の若者にも、海女を受け継ぎたい。
そして「これ知ってる?」と後輩海女にMDを見せることをいつかの楽しみとしよう。


著 藤織ジュン
1991年東京都北区生まれ。東京農業大学短期大学部卒。舞台俳優・ナレーターから23歳で久慈市に移住し北限の海女に。地域おこし協力隊の任期を満了し、(同)プロダクション未知カンパニーを起業。お土産品の販売やマルチタレントとしても活動中。


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